映画の海に漕ぐ

ランダムに借りてきたDVDで観た映画の記録

ボクたちの交換日記

 監督・脚本、内村光良の2013年公開の邦画「ボクたちの交換日記」を観た。原作は、放送作家鈴木おさむの小説「芸人交換日記 ~イエローハーツの物語~」 
 コンビのお笑い芸人を目指していた高校生の主人公ふたりが、いつしかそれぞれの道で、それぞれの生活を持つようになり、長い年月を経て再会するまでを描いていた。
 コンビでお笑いをやりたいのに、二人のうちの一人だけが才能を認められ、もう一人はその道を諦めるという展開の中で、二人の友情と仕事への向き合い方(つまりは自分自身への向き合い方)が示されていて、思い通りにならないことにどう対処するかで、人の生き方は決まるのだと感じた。と言うと、対処するまで生き方は決まっていなくて、どうするかを選んだ時点で生き方が決まっていくように聞こえるかもしれないけれど、案外その逆で、その人がその人である以上、選ぶ道というのは既に決まっていて(少なくとも大筋においては決まっていて)、何かの選択をする度にその人の生き方が浮き彫りになっていくのではないか、という気がした。運命論のように聞こえるだろうか。私がこんなふうに感じたのは、以前、作家の保坂和志という人が、次のようなことを何かに書いていたのを読んだからかもしれない。

「人は、自分で選んで生きているつもりでも、選んでいるのはほんの表面的な部分でしかない。こうもできるああもできると思っていても、実際にはこうとしかできないものだ。」

 保坂氏が述べていたこのことを、この映画が具現化しているように私の目には映ったのだと思う。
 自分という人間が一人しかいない以上、最終的に選べるのは一つの道だけだ。ああもできたしこうもできたのに、と悔やむのは自分への言い訳であり甘えなのだろう。 
 私はこの映画のラストシーンが好きだ。どうということもなく交わされる、主人公ふたりの二言三言のやり取りに、長い年月にさえ収まりきらなかった二人のえも言われぬ思いが溢れでていたように思えてならない。

ボクたちの交換日記 [DVD]

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  • 発売日: 2013/08/21
  • メディア: DVD


 


百万円と苦虫女

 2008年公開で蒼井優主演の「百万円と苦虫女」を観た。 
 DVDのジャケット裏にある粗筋を読み、アルバイトで百万円を貯めて家を出た女の子が、貯金が百万円になると次の街に引っ越す、ということを繰り返す話なのだなと理解し、それが明るく楽しく軽快な旅であるような予想を、私は無意識のうちにしていたようだ。その予想が全く外れたわけではないけれど、これほどまでに心に深く染み入る映画になるとは思っていなかった。
 じわじわとゆっくり静かに染み入ったのではなく、ガツンとくる瞬間があって、そこから映画の中のいろいろなエピソードが、くっきりとした色を持ってなだれ込んできた気がする。
 ガツンときたのは、自分探しの旅をしているのかと尋ねられた主人公が、それに答える場面だ。この主人公と私は親子のような年齢差だが、私は未だに自分探しをしているようなフシがある。そして私の自分探しは、「私の人生こんなはずではない」という自分への買い被りや、今の自分の全面否定を土台にしていたのだ、と気づかされた。出発点がそれでは、いくら探したところで自分など見つかるはずもない。そもそも自分とは探すようなものではなかったのだ(私にとっては)と教えられ、今の自分を自分なりにしっかりと見つめ、あるがままを受け入れようと思えた。
 12年も前に公開されていた映画を今さら観たわけだけれど、見ないまま人生を終えなくて良かったと感じている。

百万円と苦虫女 [DVD]

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  • 発売日: 2009/01/30
  • メディア: DVD


 


万引き家族

 是枝監督の「万引き家族」を観た。
 公開当初のテレビスポットを目にしていて、「盗んだのは、絆でした」というコピーを覚えていた。覚えていたからこそ、その意味を私は字面で捉え、おそらくこういう話なのではないかと、粗筋、というにも粗すぎる物語の漠然とした枠組みを勝手に思い浮かべていた。けれど、実際に繰り広げられた物語は、そんな枠にはまるで嵌まらない、もっとずっと生々しく、危うい、家族を求める人々の姿だった。そしてその姿は、嘘のない現実として目の前に迫ってくるような感覚があった。
 この家族の秘密に、私は映画の中盤まで全く気づかなかった。世の中の人々は大抵の場合、家族だから家族として暮らすのだろうけれど、それだけでは絆と呼ばれる深い結びつきは得られず、家族として暮らしたから家族になった、と言えるところまで、もう一周してこそ、家族になれるのだという気がする。つまり、「家族」には、すでに家族になった家族と、家族になろうとしている家族、があるように思う。家族になることを諦めた家族、もあるかもしれない。さらに言えば、家族となった家族もそれを諦めた家族も、そこで完結ということはなく、その形は日々更新されていくのだろう。それに、ひとまとめに家族と言っても、そこに含まれる一人と一人の繋がりが、結局はすべてのようにも思える。
 そして、人と人の繋がりを表すものとばかり思っていた「家族」という言葉が、時には人を疎外したり(疎外も、ある意味では繋がりのうちかもしれないが)、人と人を引き裂くこともあるのではないかと考えさせられた。
 家族という言葉は、思った以上に振れ幅のある働きを持っているようだ。



ミックス

 新垣結衣瑛太が共演した「ミックス」を観た。爽快な映画だった。
 ストーリー展開としてはオーソドックスで、先が読めてしまうような感じもあったが、弱かった者が努力によって強さを手に入れたり、寂れていた場所が活気を取り戻したりする姿は、見ている側に達成感や幸福な気持ちを与えるのだろう。
 主人公以外の登場人物たちも存在感がしっかりとあって、それぞれに事情を抱えながら、どうにかして自分の人生を受け入れようともがいている姿がとても好ましく映り、なんだか励まされた。 
 ある意味、単純な筋書きだったようにも思えるのに、厚みを感じるドラマに仕上がっているのは俳優陣の演技のなせる技と思ったが、別の言い方をすれば、単純な毎日のような気がしていても、誰もがドラマを生きている、ということなのかもしれない。
   
ミックス。 通常版DVD
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3月のライオン

 大友啓史監督、神木隆之助主演の「3月のライオン」を観た。
 いい映画だった。2日間に渡り、前編・後編と観た。どちらも2時間以上で長かったけれど、もっと観ていたかった。
 孤独を描くことで、人はひとりではないことを伝えているような映画だった。プロ棋士の世界は凄絶なのだろうと感じた。戦うという言葉が、これほどふさわしい世界はないのではないかと思うほどだ。努力してなれるものでもない、選ばれた者だけの世界。心血を注いで努力しているのに、自分ではそうと気づかないほど、とことん努力できる者だけが選ばれていく世界なのだろう。
 世の中には天才もいればろくでなしも確かにいて、そのどちらでもない人がほとんどだ。そして、天才は天才なりに、ろくでなしはろくでなしなりに、どちらでもない者はどちらでもないなりに、もがきながら生きていて、結局はその誰もがただの人間に過ぎないとも言える。
 キャストはみなはまり役に思えたが、高校教師役の高橋一生が、いい味をだしていた気がする





追憶

 2016年公開の降旗康男監督作品「追憶」を観た。
 孤児、暴力、殺人、隠蔽、別離。最初からずっと、うしろめたさに覆われたような空気が漂っていたけれど、人が人を思う気持ちが物語の奥底に流れていた。そしてその気持ちが明るく幸せな時間を生み出すわけではなく、むしろ寂しさや悲しみを掘り起こす場合が描かれていた。
 殺人事件の犯人や動機より、もっと重大な(というと殺された人に申し訳ないのだが)パンドラの箱のような秘密が最後に明らかになり、そんなまさかと思いながらも、救われたような、でもやっぱりやりきれないような複雑な気持ちにさせられた。
途中「運命なんだ」という言葉がでてきたけれど、いつどこで聞いた「運命」よりも、重たく深い感触が残った。




殯の森

 公開されてから、もう10年以上もたっていたとは思わなかった。
 ストーリーの流れのようなものはあまり感じられず、ただ、死と生がそこにある、という印象だった。タイトルに「森」が入っているが、本当に森の中をさ迷う場面があり、というか、その場面がこの映画のすべてのように見えた。
 私は大切な誰かを死によって奪われたことがないから、この映画を心から理解することはできないのかもしれない。思ったのは、命があるものは、どんなことがあっても生きなければならないということ。そして、生きるということは、実はとても不安定な状態で、誰にとっても綱渡りのようなものなのではないかということだった。




本能寺ホテル

 綾瀬はるか主演の「本能寺ホテル」を観た。
 現代人が何かの弾みで遠い昔にタイムスリップする、という映画や物語が、その時代や場所を変えていろいろ作られているのは、時の流れを止めたり、遡ることができたから、と夢見る人が多いからなのだろう。
 どんなに科学技術が発達しても、タイムマシンだけは作れないに違いない。あのとき別の道を選んでいたら、とか、こうなることが分かっていたら、という大小さまざまな思いは、きっと誰の中にもあるのだと思う。
 ならば、本能寺の変によって自害した織田信長は、その晩、明智光秀の謀反を予測できたなら、と思っただろうか。
 おそらくはこの映画を観た影響なのだが、織田信長明智光秀を恨みながら後悔の念の中で絶命したとは思えない。もしかすると、謀反を予測していたかもしれない。予測とまではいかなくても、あり得ないことではない、という程度の心積もりはあったかもしれない。
 自分の生き方、というと大げさな気もするが、今していることや、今日の選択が、どんな結果になろうと悔やみはしない、というささやかな覚悟のもとに、毎日を送っていこうと思う。自分が、そうするべき年齢に達したように思う。
 映画の中の、「誰もできなかったんじゃない、誰もやらなかっただけだ」という織田信長のセリフが印象に残った。

ミリオンダラーベイビー

2004年のクリント・イーストウッドの作品「ミリオンダラーベイビー」を観ました。
タイトルにどこか聞き覚えがあるような気がするたけで、あらすじも何も知らなかった私は、なぜか明るく派手な感じの映画を予想していたので、終わりが近づくにつれ予想外の展開になっていきましたが、かえってストーリーに心を添わせることが出来たように思います。
生きる、ということを深く考えさせられた、と言いたいところですが、生きるとはどういうことなのかを頭で考えるより先に、体で感じさせられたような感じがしています。
また、この主人公が、血の繋がった家族と絆を紡げないことに傷つき、深い悲しみを背負っていたとしても、その一色で人生が塗りつぶされはしないことに、「人」という存在の持つ奥行きの広さのようなものを感じました。それはつまり、どんな種類の悲しみや痛みにも、絶望するかしないかは本人の生き方次第だということになるのでしょう。
そして、こう生きなければならない、という押し付けは、誰に対してもどこからも与えられるべきではないなら、生き甲斐と呼べるものを探しだすために四苦八苦する必要はないようにも思いました。どこか矛盾したことを言っているように聞こえるでしょうか。





深夜食堂

人々の日常を淡々と描いたような、サラッとした映画をみたいと思い(サラッとした日常、という意味ではないのてすが)、ツタヤの中をうろうろしていて最後に棚に戻さず借りてきたのが「深夜食堂」でした。
私自身、深夜という時間帯をとても愛しているせいもあるのか、こんなお店があるなら、ぜひとも行ってみたいと思わされました。
誰もが自分の日常を生きていて、その中で出会いや別れが訪れるたびに、押し寄せる感情やその結果を受けとめたり受け流したりしながら唯一無二の人生を送っているのだと感じました。本当に人はそれぞれなものですね。決して共存できない相手もいれば、たとえ分かり合えなくても寄り添うことのてきる場合もあったり、人と人のつながりは不思議です。人は主観でしか生きられないものだと思ってきましたが、それは、言い換えれば自分の都合で生きるということなのかもしれません。
最近はあまり料理をしなくなっていましたが、この映画を観たら、玉子焼きを作りたくなりました、

湯を沸かすほどの熱い愛

宮沢りえ主演の「湯を沸かすほどの熱い愛」を観ました。
観てから3か月ほどがたつのですが、しばらくは感想を言葉にするのを避けたいような、観たものをそのまま自分の中に留めておきたいような、そんな感覚がありました。その感覚は今も薄れていませんが、こ映画を観たということの記録は、やはり残しておこうと思った次第です。
これから先、この映画のタイトルを見たとき、聞いたときには、きっと映画の中のありとあらゆる場面がフラッシュバックするだろうという気がします。
登場人物たちは、みんな普通に自分の人生を生きているのだけれど、どの人生も特別でした。なかなか起こらないことが起こったり、めったにないような境遇に生まれることが特別なのではなく、自分に生まれて自分として生きていくことこそが特別なのでしょう。その特別の前では、魅力的な人になりたいとか、しっかり生きていきたいとか、あるいは家族を大切にしたいという言葉でさえ、綿のように軽いものに思われます。(などというと、誤解を招きそうですが、)
この映画の主人公は、末期ガンが見つかって残り少ない命と知ります。「私には、やらなきゃいけないことが、まだある」という台詞の通り、病気のことなど忘れたかのように様々なことに心血を注ぎます。それを、主人公が家族のためにしたことと捉えることもできそうです。その解釈が間違っているとは思いませんが、私には、主人公が自分のために行動しているようにも見えました。もっと言えば、自分のためとも家族のためとも思っているわけではなく、ただ、そうしたいからしているだけ、つまりは自分の人生を生きているだけ、というように映りました。
感想を言葉にしたくなかったはずなのに、あれこれ述べましたが、感想というよりは、こんな風に見えたという覚え書きのつもりです。





プーと大人になった僕

映画館で公開中のディズニー映画「プーと大人になった僕」を観てきた。
娘がディズニーアニメの「くまのプーさん」が大好きで何度もみていたため、私も一緒に何度となくビデオで鑑賞している。
実写になっても、プーと100エーカーの森の仲間たちの世界は、少しも損なわれることなく、むしろ大人になったクリストファー・ロビンが登場する以上、実写の方がより自然に、より身近に、感じられたように思う。
娘にはクリストファー・ロビンと同じように、1歳の頃から大事にしているくまのぬいぐるみがある。もうハタチを過ぎて何年かたつ娘が、今もそのぬいぐるみを大切に持っていることは、誇らしいことなのだとこの映画が教えてくれた。
宝物は、人に見せるためにあるのではないし、誰かになぜそれが宝なのかをわかってもらう必要のないものだ。時々こっそり取り出して、一人で眺め、しあわせな気持ちになれればそれでいい。こんな簡単なことに、私は今日まで、うっすらとしか気づいていなかったように思う。それをはっきりと意識した今、大切にしたい人がいるなら、その人の世界に踏み込むことなく、その人の持つ世界をまるごと受け入れられる自分でありたいと、心から願う。






殿、利息でござる

阿部サダヲ主演の映画「殿、利息でござる」を観た。
時代ものであり、人間ドラマであり、コメディでもある映画だった。
一粒で三度美味しい、と言ってもいい感じだ。冒頭、イケメン俳優の瑛太が、いきなりコミカルな感じで現れたのが楽しく、なんだか面白そうだと期待が高まり、すぐさま映画の世界に引き込まれた。
世の中を変えようとする気骨さと、貧しいものに自分の財産を惜しみなく分け与える寛大さを兼ね備えていた人物の生き方には(そして、その一族にも)頭の下がる思いがした。
この映画は実話だそうだけれど、誰が分け与えたのかを決して知らせることなく与えようとした、その側面があって初めて「寛大な行為」と呼ばれるのにふさわしいのだと感じた。

この話をコメディ仕立てに描いたのは大正解なのだろう。
とても面白かったし、心が洗われるような思いにもなった。





ニライカナイからの手紙

2005年の熊澤尚人監督の映画「ニライカナイからの手紙」を観た。
泣けた。
こんな仕掛けが隠れているとは思わなかった。
私たちが生きているということに、意味があるるのかないのかは誰にも分からないことだと思っていたけれど、それはたとえば、宇宙とは何かというような広い意味で人を捉えた場合、
言い方を変えれば学問上での話だったのかもしれない。もっと狭い意味というか、別の捉え方をすれば、人は生き物である前に人であり、それぞれに生きる意味があるのだということを突きつけられた気がする。
少女のあどけなさを残した蒼井優が演じる主人公は、沖縄の風景に見守られながら懸命に生きていた。ストーリーとしては悲しい内容なのに、最初から最後までやさしい色が流れていたのは、何が起ころうと主人公が決して一人ではなかったからなのだろう。
言葉では表現できないことを表現するために映画や絵画や音楽があるわけだけれど、この映画は、言葉では表現できない大切なことを、さりげなく描いていたと思う。




おっぱいバレー

2009年に公開された綾瀬はるか主演の映画「おっぱいバレー」をみた。
バカバカしいようでいて、実は切実な何かに向かって夢中になったり懸命に努力したりするのが青春なのだろう。
青春でなくても、そもそも人の願いなんて、他者からみればどうでもいいことである場合がほとんどだと思う。
バレーボールというスポーツが好きで、県大会で優勝したいと願って練習に励むのは立派で、バレーボールが特に好きなわけではないが先生のおっぱいを見たいから試合に勝つための練習を頑張るのは不純だ、などと誰に言えるだろう。後者の方が練習を辛く感じるはずで、辛いことに耐えて努力しているという点では、前者より多くを学んでいるかもしれない。こんな見方はひねくれているのだろうか。
主人公の女教師にしても、人は自分のやり方で生きて行くしかないのだし、それでいいのだと体現していたような気がする。
綾瀬はるかは、初々しいというほど幼くもなく、天真爛漫というほど無邪気でもない、不思議な魅力のある女優さんで、それは昔から変わらないのだな、と思った。